2022年8月19日往訪。
帰省中、野暮用でやってきた滋賀県。時間が余ったので、近江鉄道の御園線跡を探索することにしました。
まずは地図と年表です。
【地図】
【年表】
御園線は、現在の万葉あかね線から新八日市駅の西側で分岐し、近江鉄道本線を築堤で乗り越え、東へ約2.5kmの距離を走っていた路線。
起点となる新八日市駅には、この路線の唯一の遺構とも言うべき、大正11年から残る立派な駅舎が・・・あっ!
・・・撮り忘れました(ToT)
さらに東へ進むと、廃線跡は「餃子の王将」の手前で八風街道と別れ、左へそれていきます。そこが川合寺駅跡。その王将の入る建物の一面は八風街道に対しかなり鋭角になっています。廃線の名残と考えていいでしょう。
突き抜けた先は生活路になっていました。
右側は近江鉄道(バス)の営業所です。
クルマで一気にワープ(笑)。この辺りが終点の御園駅。
新八日市駅からは一旦西へ進み、スイッチバックしてから築堤を登っていたとのこと。
そのスイッチバックの跡がおそらくこのあたり。
天理教道踏切に戻り、振り返るとそこが分岐点(下の写真)。右にカーブを描く道路が見えますが、その左側、住宅が立ち並んでいるところが廃線跡(築堤跡)と思われます。廃線後、築堤跡に住宅が立ち並んだということですね。
そのスイッチバックの跡がおそらくこのあたり。
埋もれた線路が少しだけ見えています。新八日市駅を出た列車は一旦この線路に入り、奥でスイッチバックし、さらにもう一つ左側の線路で高度を上げながら戻ってくるイメージかと。残念ながら真夏は雑草がボーボーで、全く地形が見えません(笑)
もう少し右から。左上に見えるのは天理教の教会の建物です。下の写真は上の写真の奥に見える踏切から撮ったもの。スイッチバックの終点と思われるあたりです。手前の2本の架線柱は単線用ですが、その奥は複線用。雑草で分かりにくいですが、少し高度もあるように見えます。
築堤跡は、国土地理院の1961/5/22撮影の航空写真が比較的分かりやすいかも。ちょうど画面中央で下向きにカーブを描いています。まだ築堤は崩されていないようですが、1964年の正式廃止前なのに、本線を跨ぐ橋は既に撤去されているのが分かります。
この辺りで近江鉄道本線の上を通過していたはず。橋どころか、築堤もなにも残っていません(笑)
なかなか華やかな、近江鉄道の列車。
うん?この電車、なんか見覚えがあるような・・・。
まもなく廃線跡は現在の八風街道(国道421号)と合流。このあたりが八日市中野駅と思われます。
そしてまもなく、廃線跡では定番の歩行者・自転車専用道に変化。
なんかさっきの電車もバスも見覚えがあると思ったら、近江鉄道は昔も今も西武系列なんですよね〜。毎日通勤で乗っていた電車かもしれません。
この辺りで引き返し・・・
駅の南(写真の右手)、八風街道を挟んだ向こう側には、大正4(1915)年設立の日本初の民間飛行場「沖野ヶ原飛行場」がありました。大正11(1922)年には陸軍が誘致され「八日市飛行場」に改称、航空第三聯隊(のちの飛行第三聯隊)が置かれます。大正12(1923)年に新八幡駅(現在の近江八幡駅)から八日市口駅(現在の新八日市駅)まで開通した湖南鉄道が、大正16(1927)年に琵琶湖鉄道汽船に合併、大正18(1929)年八日市鉄道に譲渡されたあと、大正19(1930)年に八日市鉄道として新八日市駅から飛行場駅(戦時中に防諜のため御園駅に改称)まで延長され、戦争物資や兵員の輸送に活躍することになります。
現在も近くの沖原神社には第三聯隊の正門跡(移設)が、またそれが実際に設置されていたローソン東近江東沖野三丁目店の駐車場脇には記念碑が、それぞれ残されています。
戦後、飛行場は米軍に引き渡され、昭和21(1946)年に新八日市駅から八日市駅への渡り線が設置されたのち、御園線は昭和23(1948)年に営業を休止することになります。
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