呉はかつて東洋一の軍港として栄えた街。なんといっても戦艦大和が有名ですが、映画「この世界の片隅に」も呉が舞台です。
この角のまあるい下士官兵集会所も映画で出てきました。
当時の輸送は鉄道が中心でしたので、廃線跡もよりどりみどり。廃線跡を探索したあとはいつも古い地図や航空写真、文献などで当時の配線(レールがどう敷かれていたか)を想像しつつ地図上に書いてみるのがささやかな楽しみになっているのですが・・・今回は本当に大変でした。とにかく多い(笑)。
赤は旧呉海軍工廠専用線、橙は呉駅の南側に広がっていた貨物ヤードと旧東洋バブコック専用線、及び中央桟橋への引き込み線、緑は呉線の旧線(青は現行線)、紫は呉市電の配線推定図です。呉海軍工廠専用線は、この図で示した先も続いていて、工廠の中も縦横無尽に走っていた訳ですが、さすがにそこは省略しました。
1.貨物ヤードと東洋バブコック専用線
貨物ヤードは転車台も備えた広大なもので、そこから南には3本の引き込み線らしきものが伸びていたのが分かります。うち左の2本は東洋バブコック(英国企業の日本法人で、のちのバブコック日立→三菱日立パワーシステムズ→現三菱パワー)の工場専用線。Wikipediaに掲載されている1954年の米軍地図が正しければ、当初は繋がっていて、宝町をぐるっと一周するループになっていたようです。
さすがに全く遺構はないのですが、現在の三菱パワー呉工場への進入口と思われるあたりに、不自然に斜めに設置されている白い柵が見えます(写真右下、工場敷地内)。当時の地図と見比べる限り、当時のレールに沿ったもので、廃線の名残と考えて間違いなさそうです。
3本の引き込み線のうち一番右端のものは、大和ミュージアムの東側を通り、現在の呉港フェリー乗り場の辺りへ伸びていたようですが、残念ながら遺構や名残はありませんでした。
2.呉海軍工廠専用線
続いては「呉海軍工廠専用線」。貨物ヤードから東に出た専用線は、呉駅から呉線と並行して東に出ると、すぐに車道を越えます。
現在は歩道橋となっていますが、よく見ると・・・
橋銘板はほとんど消えかかっていますが「境」「川」「橋」らしき文字が読み取れます。
・・・ん?「境川」?
いや、地図上の記載は「堺川」です。昔は違う漢字を当てたのか?それとも書く人が単純に間違えただけ?
反対側から見るとこんな感じ。並行して現役の呉線の橋も架かっています
呉線は単線ですが、なぜか橋脚は複線用。理由、分かります?廃線鉄はみんなこういうのが大好物なんです(笑)
昔の空中写真を見ると、橋を渡った先で複線となった専用線が港へ向けて右へ(写真では下へ)大きくカーブを描いているのが分かります。
1947年5月5日撮影(国土地理院 地図・空中写真閲覧システム)
そのカーブは今も長い駐車場の形で残っています。写真は南側(海軍工廠側)から撮影したもの。正面に見えているのは呉線の築堤です。
このカーブの先はどうやら現在の国道487号線の路面軌道上を工廠方面へ進んでいたようです。冒頭で紹介した映画の下士官兵集会所のシーンでも、路面軌道に入ってくる列車がリアルに描写されていました。→朝日新聞DIGITAL「この世界の片隅に」舞台を巡るNo.21
呉駅周辺の廃線跡(後編)へ続く
2021年8月5日〜6日訪問
呉市電…きちんとは知らなかったなあ…
返信削除コメントありがとうございます!
削除呉市電は遺構もほとんどないようでちょっと残念でした・・・。またお邪魔する機会があればもう少し掘り下げてみたいです。
故郷のご紹介、ありがとうございます。
返信削除旧海軍工廠引き込み線は、国鉄の貨物営業時代は眼鏡橋のカーブの手前まで存続していて、DLが貨車を牽引して引き上げては突放の操車をしていました。それから堺川ですが、自分が子供の頃は「境川」と書くのが普通でした。いつかしら漢字表記が堺川に変わったのでしょうね。
こちらこそコメントありがとうございます。めがね橋前のカーブした駐車場を見ていると、おっしゃる情景が浮かんできます。やはり昔は「境川」と書いてたんですね。
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