いよいよ最終日です。
出発地は水沢。水沢の三大偉人と言えば、まず蘭学者の高野長英・・・
台北出張では、後藤の招聘した林学者・河合鈰太郎がその敷設に貢献した阿里山森林鉄路・・・は時間が足りずに断念したものの、途中にある台湾鉄路の旧豊富駅などに寄りました。大連出張では満鉄の廃線跡も巡りました。お茶の水橋で昨年発掘された都電(東京市電)レールは、関東大震災で被害を受けたお茶の水橋の復興・架替時の際に敷設したレールそのものです。ちなみに私は地元のカブスカウト活動のお手伝いをしているのですが、後藤新平はボーイスカウト日本連盟の初代会長でもあります。安宿を探してたまたまたどり着いた水沢ですが、何かと縁を感じる場所でもありました。また別の機会にゆっくり訪ねてみたい小京都です。
さて、この日最初の廃線跡は・・・宮城県の「松山人車軌道」。
【地図・配線図】
突き当りで線路は急なRを描いて右に曲がります。この辺りが②竹ノ花駅跡。
終点の④金谷駅跡付近。奥がJR松山町駅。この辺りも線路は向かって左側にあったようです。
松山町駅。松山町は平成の大合併を経て現在は大崎市となっています。
【年表】
まずは「松山ふるさと歴史館」へ。松山人車軌道を調べるならココは絶対外せません。
おススメは館内の展示と小さな図書コーナー。松山人車軌道に関する資料も充実していて、同軌道のバイブル「人車物語-公園を走る人車」(氷室眞俉著)も読むことができます。
松山人車軌道では当時4台の車両が使用されました。残念ながら3号車・4号車は解体されたようですが、2台が現存しています。
1号車は廃線後、現在の県立松山高の西側、江戸時代にこの地を収めた茂庭(もにわ)氏の居館・上野館(うえのだて)跡にある⑤稲荷神社に30年以上ものあいだ置かれていました。1963(昭和38)年、NHK仙台中央放送局の職員が発見、国鉄大井工場でレストアされ、東京の交通博物館を経て現在は大宮の鉄道博物館に収蔵されています。
松山ふるさと歴史館の入り口に飾られているのは2号車です。廃線後、小牛田町北浦の梨畑の監視小屋として使われていたのを1971(昭和46)年12月3日に仙台放送が発見。こちらは仙台交通局電車部長町工場でレストアされ、翌1972(昭和47)年の「鉄道百年祭」に出展。その後、仙台放送の玄関脇に展示されていましたが、1987(昭和62)年7月1日、仙台放送の開局25周年を記念して松山町に寄贈され里帰り。建設会社から譲り受けたトロッコのレールが町の南にある⑥コスモス園に敷設され、同年9月13日、実に58年ぶりに再びレールの上を走行したのです。1989(平成元)年8月15日には町の有形文化財に指定されました。
以降、毎年9月に開催されるコスモス祭の期間に限り2号車が⑥コスモス園内の路線で季節運行されるようになりますが、前述の通り町の指定文化財となったため、1992(平成4)年、なんと1922(大正11)年の開通から実に70年ぶりに新車がJR東日本仙台総合車両所(現在の新幹線総合車両センター)により製造されます。同年9月3日に車両所内で落成記念式が行われ、以後この「5号車」が⑥コスモス園内の運行に使われています。
運行時以外は松山ふるさと歴史館の隣にある「松山酒ミュージアム」に保管・展示されています。
レールや車両は2009(平成21)年2月5日、国の近代化遺産に認定されました。
以上、たっぷり情報収集をしたうえで廃線跡探索を開始。①千石駅跡は写真を撮りそびれましたので、松山酒ミュージアム前の写真からスタート。北に向いて撮影したものですが、先の「人車物語」の表紙にもある通り、線路はこの辺りでは向かって右側にありました。
②竹ノ花から先、線路は向かって道路の左側に場所を変え進みます。
③金ヶ崎駅跡付近。
2019年8月12日往訪
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